コピーライトについて(つづき)


ぼくはコピーライトが嫌いだ。

著作権という主張は、その知的財産において、それが作者のオリジナル(ゼロからの創造)である、という前提を確保しなければ成立しない。でも、作者のオリジナルという前提自体、きわめて危ういものだ。生まれてから一度も音楽を聴かず、楽器の調律にも従わず、感受性を硬く閉じ、かつすべての数理的な秩序から自由である音楽家はいない。(もしかしたらいるかもしれないけれど、彼の音楽を聴いてシンパシーを感じる人はあまりいないと思う。)

作者は先人たちの意志を紡ぐ。限定的な秩序の檻で楽器を奏でる。深く意識に染込んだ誰かの言葉を歌う。そうやって様々なファクターをかき集めて作品を作る。
もちろん意思踏襲は創造行為と言えるし、歴史のそのような"パクり"と僅かな変容が知的文化を支えていることは確かだ。しかし、もっとも重要なのは、彼らが(作者が)「誰かの声を享受している」ことに自覚的であることだとぼくは思う。

たぶん、自分の創作行為の根本を吟味せず、「剽窃」の可能性に一寸の疑いも持たない人々が、「俺はどこにもコミットしていない。」といって、コピーライトの死守を主張するのだろう。

以下引用

―自分が何を言いたいのかを知るためには「他人にも通じることば」を語らねばならない。 それが「語法の檻」ということである。そして、「他人にも通じることば」というのは、その定義からして、「誰かがすでに言ったことば」「その意味がすでに知られていることば」を 組み合わせることでしか作り出せないのである。

その「檻」の中で私たちができるほとんど唯一の創造的なことは、自分が何か斬新なことばを語っているつもりのときにすりきれた常套句を繰り返しているという「病識」を持つこと、その徴候を吟味することで「私たちを閉じ込めているこの檻の構造と機能」について主題的に考究することである。

引用終わり

これは内田樹氏のテクストだけれど、内田樹氏自身、「千賢の教えに従って、その教えを繰り返す。」「これはラカンの受け売り」と書いている。

自分の語っている言葉が、外部からの受け売りであり、手垢のついた他人の言葉であるという事実は確かに(自分が創造者だと盲信している人にはとくに)少々パセティックではあるけれど。


   
2007年9月 2日  |  Category :