2008年1月 Archive




ライヴが続きます。

ステージでは、程度の差こそあれ、様々な理由でパフォーマンスが変化する。室内の空調や、楽器の質、ライヴの時間帯などが起因して、身体は開放され、また抑制される。(先日のライヴの鍵盤は、決して良質とは言えないものだった。)

多くの人は、仕事の現場やステージで「自分を最大限に生かせる場」を要求するけれど、それはたぶん、彼らが思う「理想的な好環境」ではない。人が持っている能力以上のものを絞り出しているとき、彼らはどこかで規制されているはずである。「こんな環境で、こんな条件だけど、まぁ頑張ってね。」と言われたときに初めて、知性はアクティブになるし、「仕方ないな…」と思いつつも、身体の底のほうに残っている才知を駆使して、今までに抽出していなかった能力を発揮するのである。

ぼくのような凡庸な音楽家はとくに、条件付けされたときのほうが、自由気ままなときよりも上手に立ち回ることができる。 縛られているほうが円滑洒脱の身よりも想像力は涼やかに起動している。ということに最近気付いた。(そんなこともわからないようだから、いつまでたっても凡庸なんだよ。)
作曲においても同じである。はじめに「4分の3拍子で、C-durで始まって、A-mollで終わる32小節の曲を作りなさい」と言われたほうが、「なんでもいいから明るい曲つくって」と言われるよりもはるかに「自由自在」なのである。
考えてみたらあたりまえだよな。
天井のある室内では、おもいきりジャンプできるけれど、空に向って全力で飛び上がるのは、何か心もとないし、高く跳べた気がしないもの。

そんなわけで、先日のライヴは大成功であった。
歌は軽やかに弾み、鍵盤と打楽器には、深遠なコレスポンダンスが生まれた。(ただし、PAの方が優秀であることが前提である。ありがたや。) このくだり、何が言いたいのかといえば、「ステージが俺ら的じゃないね。ぷい。」というような稚拙な言い訳は通用しないということである。



最近個性について思うところがあったので、少し。
簡単にいってしまうと、個性的であろうとする振る舞いが自分の首を絞めているということです。(というかぼく自身、そうであった。)「人と違う」ことへの希求は、秩序からの脱却を通して成しうるものではない。真逆である。先述したように個性というものは条件を課したときに、より顕著になる。(たぶん。) というより、目を凝らさなければ見分けのつかないような条件下では、個性は何もしなくても際立つものだ。

ブティック街を歩けばよくわかる。 人との差異化を図ろうと、ブランド品に身を包んだ女の子たちは、 ごく自然に、「わたしはあなたと違うのよ」的グループに"カテゴライズ"されている。真に個性的な女の子は、「人と差異をつける」ために洋服なりバッグなりを選ばない。真に個性的ではない女の子が、「差別化(あるいは個性化)を図ろうと」して、想像力を磨耗しているのである。
彼女たちはマイノリティーとしての主張を掲げているのではなく、(もちろん個性的でありたいと盲信しつつ)「マイノリティーではない人々(要するにヴィトンのバッグを持てない人々)がいること」を強く望んでいるのである。なんと後ろ向きな祈りであろうか。

個性的でありたいという"祈り"は、「どうあっても個性的になれない人」がいて、はじめて成就する願望である。「どうあっても個性的になれない人」など、そもそも生物学的にありえないから、個性的という神話は不毛である。 個性への偏執というのは、たとえば成功を求める人が、無意識下で、「どんな努力をしても結実せず、どんな訓練も報われない人が出来るだけ多くいてくれ!」と切望することに似ている。
また、知への追求を惜しまず「馬鹿」を睥睨する姿勢が、実は「馬鹿」の存在価値を認め、彼らを含めたヒエラルキーを財貨のごとく死守しようとしていることと同型である。 個性的であろうする"祈り"というのは、自分以外の人々を常に意識して観察し、彼らの身振りをチェックして、研究することに他ならないのである。

また、著作権というのも同じ思想だ。
"個性が自分の内から滲み出たものだと信じて止まない人々"が往々にして個性性を主張し、コピーライトを死守しようとするのである。 「これは俺にしかできない。俺と同じことをするやつは徹底的に排除する。」

個性とは人の色などではない。並べられた多種多様な色鉛筆から、 いざという時に(ある条件下で)その場に適合した色鉛筆を選びとる能力を個性と呼ぶのである。ヽ(^。^)ノ


というようなことを自分に言いたい。一年ほど前に、ぼくが友人に個性性の重要性を説いたとき、「今まではそうだけどね、21世紀は身体の時代になると思う。」と言われた。当時、ぼくはその意味することがうまく掴めなかった。そして一年経ち、ようやく「身体」の個性性に気付いた。 そうなんです。人との比較が個性ではなく、というか人は生まれながらに個性的な身体を持っているわけで、改めて個性を主張することもないわけなんですね。個性的でありたいと思うのであれば、自分の身体をくまなく点検すれば良いわけです。 その運用方法に、個性が隠されているのです。
おしまい。

この暴論コラム?は、某内田氏(またかよ)のブログのテキストからインスパイアされたものです。最後までドライブ感のあるテキストなので興味があれば読んでみてください。

http://blog.tatsuru.com/2008/01/19_0927.php







遅ればせながら、明けましておめでとうございます。


クリスマスやらお正月やら、特別に好きでもないけれど、
それぞれの季節を確認する作業は重要だと思う。
一年を短いスパンで分割すればするほど、
効率よく物事をこなせるし、明確なニッチを持つことができる。
(と思う。)

今冬は、ヤキイモを作り、風呂に柚を入れ、祖母の誕生日を祝い、密かにサンタが来た。大晦日は川崎大師に行った。
元旦は実家のおせち料理に舌鼓を打ち、天皇杯を見た。
「年賀状?んなもん社交辞令だろ?ケ」と豪語していた彼は、彼宛に届いていた数枚の年賀状を手に取り、破顔一笑ともいえる表情を浮かべた。(彼は一通も出していない。)
近日中に手作り凧を作って凧揚げをする予定です。


大掃除。
「誰かやってくれねーかな…」と毎分2000回ぐらい呟きながら
お風呂のタイルなどを磨く。
ぼくの敬愛する内田樹氏は
「家事をアウトソーシングする人間をわたしは信用しない」的なことを豪語している。
なので、渋々磨く。

08年、二日目。
早々と作曲したい魂がアクティブになる。でも眠いので、半日は猫とごろごろする。タキタニ(♀猫)と七並べとか、福笑いとかする。

08年、五日目。
お祭り気分もやや矮小化したので、いっそう仕事に励む。
古橋悌二のmemorandumを読んで、幸せが喚起してモチベーションとなる。
新作レコードの曲が3曲まで終わる。しかし眠い。


今年は勉強がしたい。
音楽をやっていると、自然に世界の物事を音楽世界のフィールドに引っ張り込んで、無理矢理解釈しようとしがちである。音楽を糸口にして、他の分野について思考するというのは、それはそれでおもしろいし、重要なアプローチではあるのだけど、同じ世界にコミットし続けるのは大変危険な状態であろうと思う。すでに知っている世界を主題的に勘案するのは、楽ではあるけれど、アバンギャルドではない。
音楽みたいな嗜好性の強いあいま~いなことをやっていると、是非がうやむやになり、旧態依然の日々が続きかねない。

--引用

すぐれた書物は私たちを見知らぬ風景のなかに連れ出す。
その風景があまりに強烈なので、私たちはもう自分の住み慣れた世界に以前のようにしっくりなじむことができない。そうやって、さらに見知らぬ世界に分け入るのだけれど、必ず「あ、ここから先は行けない」という点にたどりつく。そして、ふたたび「もとの世界」に戻ってきたとき、私たちは見慣れたはずの世界がそれまでとは別の光で輝いているのを知るのである。
若い人に必要なのは、この終わりなき自己解体と自己再生であると私は思う。愛したものを憎むようになり、いちどは憎んだものを再び受け容れる、というしかたで、私たちは少しずる成長してゆく。

引用終わり--

さて、どこに行こうかな。


友人の御成婚が相次いだ。(相次ぐ。)
「なぜ、みんな結婚するんだ?考えられん!プンプン」などと
古い友人と電話で、ややパセティックに嘆く。
現状の1割程度、自分への興味が薄れたら、結婚などと考えてもいいかもしれない。今はまだ、自意識と無知がべったりと体中に張り付いているので無理です。


「タキタニ、おまえも映画観るか?」
「にゃー」
「そうか、じゃあ、一緒に観よう」

彼女との、この腹話術的コミュニケーションが、ぼくの生活において唯一、会話能力を涵養する機会である。
人は往々にして、野菜や、車や、バットや、灰皿や、小銭やらとピア・カウンセリングを行う。そうやって、ぼくらは暮らしにリズムと色彩を持たせる。
などと書いていると、「さみしーにゃー、あんた。」と言われた。


先月は、歩かなかったし、何も見なかった。
いやな気分だ。まぁいいや、
書きたいことはまだ山ほどあるけれど、
年始だし、これぐらいにしておくか。