ngatari ガタリ
Art Work by Hana Akiyama
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© ngatari


なんとなく、twitterからfacebookへのシフトが世相として実感されるので、どっぷりとミーハーなぼくは、最近facebookにアクティブです。
しかし、例の「いいね!」ボタンには、いつまでたっても馴染めない。洗濯機の入力スイッチを押すときよりも、Pasmoのタッチよりも手軽に、同意を促されるこのシステムは、いかがなものか。

「全幅の同意を与えたいと思う記事だけに「いいね!」を押せばいいじゃないか、と言われるかもしれないけれど、そんなことは絶対出来ないように、facebookは設計されている。
だって「いいね!」を選ばないことには、コミュニケーション自体が立ち上がらないから。我々には、「いいね!」か沈黙かの、二つの選択肢しか与えられていない。
「よくないね!」も「悪くはないね!」もないし、「いいね!(嘲笑)」や、「いいね!(飽)」もない。
「(賛成はできないが、興味あります、)いいね!」もないので、豊かな議論が展開することもない。
だから、facebook上に反論意見はほとんどない。反論は「沈黙」としてカウントされ、人目につくことはない。
「おれは自分のプリンシプルに反する記事には同意しない!」と息巻く"正しい"人々は、その誠実さゆえに、facebookでのコミュニケーションから自動的に疎外されている。

facebookの「いいね!」それ自体への「いいね!」は回避不能であることが、facebookに漂う「うすっぺらさ」の原因だと思うんですよ。
まぁ、面従腹背の身振りこそ、facebookをはじめとするSNSコミュニケーションの基軸なのかもしれないけどさ。
それでは、「いいね!」をお待ちしています。



教授のトリビュート・アルバム、『坂本龍一トリビュート Ryuichi Sakamoto Tribute』に参加しました。
NGATARIは「美貌の青空」をカバーしました。
ボーカル3声と、ファゴット、コントラバス、ピアノという編成で、作りました。
原曲のVl.とVc.の声部をJessicaのボーカルで支え、コントラバスを藁科基輝さん、ファゴット・大内洋介さん、ピアノ・本間太郎くんにそれぞれ弾いてもらいました。
ピアノはあんたが弾けよと言われるかもしれませんが、ガタリのモットーは、「いつのときもよりうまく出来る人を採用する」というものです。なので、ぼくはそれぞれの楽譜を書き、皆に配ったあとは、渋い顔で昼寝していました。

後日談:
なんと、教授より、「美貌の青空」について、望外のコメントを頂きました!



『The Girl From Ipanema ~アントニオ・カルロス・ジョビン・トリビュート~』
トベタ・バジュンさんプロデュース第二弾カバー。
今度は、アントニオ・カルロス・ジョビンです。
ボサノバなんて門外漢なので、粉骨砕身のレコーディングでした。
ボサノバとして成り立っているのか不安ですが試聴してみてください。
NGATARIは、「Desafinado」です。




「異文化交流ナイト」について、採録します。
(ぼくも本間くんと渡部くんとここで演奏しました。)

ただアクティブなだけで出来ることじゃないと思うんです。若きオーガナイザーの芦刈くんは素晴らしい仕事をしている。
共生や地域社会・コミュニティ活動のような言葉は、時代の風潮に心地良く馴染むけれど、言葉自体には何の意味もないし、多くの活動家やイベンター達は、社会とカウンターカルチャーのリンケージがうまくイメージ出来ず、いまだに退嬰的な活動をぐずぐず続けている。
彼の作るイベントは、オリジナルだと思うし、手探りではあるけれど、伝達への欲求は力強い。特筆すべきは、人的な格差がなくてフラットであり、手の届く距離の人たちと何かを交換している実感を、(たぶん少なくないひとが)持つことのできる空間であること。なにより従来のアンダーグラウンドにはない風通しの良さ(内輪パーティーにありがちな排他的な雰囲気があまりないところ)が、ぼくの気に入っている。

こういう活動は、がんばって続けて欲しいです。



4/11 祖師谷大蔵のCafe MURIWUIにて、コントラバス奏者のパール・アレキサンダーさんと演奏します。
引き出しも多くて、素敵な演奏者です。


5/8のライブは、あだち麗三郎くんと、チェロ奏者の関口将史さん、ひょっとするとコンバス奏者のの芦刈純くんと、NGATARIが共演します。@mona records







訃報が次々届き、喪に服す折も増え、哀悼の意を表明している人々がたくさんいる。
死を悼むというのは、ごく個人的なものだ。もしあなたが個人的に故人を追惜したいと思うのなら、せめて「弔意の共有」への欲望だけは自制するべきなのではないかと思うけれど、それはぼくの個人的な意見だ。

去年親しい人を失った。切迫した死を目の前にして、「最期は苦しまなかった」とか「天寿をまっとうした」と言われても、ぜんぜんまったく理解できなかったし、彼が今はもうここにいないという事実が事実として飲み込めなかった。
「死はきっと、孤独で冷たくて辛いものだよ。誰とも分かち合えないし、共有もできないのだから。」と、死ぬことを、水に溺れることのようにしか想像できないぼくは、少なくともそう感じたし、死んでしまった彼が可哀想で身を引きちぎられる思いさえした。
でも、もちろん、悲しむことも苦しむことも、出来るのは生きている人間だけだ。故人が何を思い、何を望んでいるのかわからないからこそ、突き刺さる悲しみにも、肺腑をえぐるような喪失感にも、時間をかけて耐え忍ぶことができるのだとぼくは思う。死者のために何かをなすという行為は、たとえそれが温かな気遣いや、あるいは親しい人の弔いであっても、本質的には不遜であることにかわりはない。
死者への追悼の意や、故人の生前を忍ぶことを否定しているのではない。「死者のために」は何ひとつ正しいことは出来ないし、効果的な祈りもないのだという無力の態度からしか、死を悼むことはできないと思うだけだ。
なぜなら、死者を弔うことができるのは「死者が本当は何を望んでいるのかまったく見当もつかない」生者だけだからだ。
今まさに悲しみ、苦しむことのできる、我々だけだからだ。

2012.2.18 (土) / 喫茶茶会記
2/18は、本間太郎氏と渡部正人とともに、二台ピアノ+パーカッションのライブをします。
30年前の現在40~50歳のキッズたちの心がときめくような曲やります。
ライヒやら、レディオ・ヘッドなんてやりませんから、心していらしてください。

2/15 HONZI LOVE CONNECTION 4 / 吉祥寺スターパインズカフェ
HONZIさん追悼のライブで、Jessicaが少し歌います。
出演 : スパン子, 熊坂義人, 良原リエ, 他

個人的には音楽と、追悼の意はまったく別のフェーズにある気がするけど、上にも書いたとおり、それはただのぼくの意見であるし、純粋な音楽は素敵に違いがなく、生前を忍ぶことの懇情というのは、さらに素敵なものに違いない。

Gumroadすごいなー。ありそうでなかった、作れそうでだれも作らなかったシステムだよね。こういうのはすごくドキドキするなぁ。








あけましておめでとうございます。
年末年始は京都に行ったり、鍋をつつきながらウノをしたり、南仏料理を食べ、映画を観たりして過ごしました。実家に帰っておせち料理を食べ、靴を新調して、水と塩を注文し、たくさん本を買った。
周りのひとたちが「今年の抱負」を語っているのをみて、あわてて今年の戦略をと思ったけれど、一年間の青写真というとスパンが長すぎて上手くスキームを立てられない。ぼくの場合三ヶ月くらい先の見通しが限度で、100日以降の未来と言われても想像の他みたいだ。なので春先までの計画を手短に書きます。これらは自分の備忘のためであって告知ではないのであしからず。

まず今月は、じゃぶじゃぶと新曲を書く。これはファーストプライオリティー。録音をして、編曲やサウンドクリエイションをどうするか、どんな楽器を使うか、あるいは誰に依頼するかを決める。来月以降の作品作りのマスタープランみたいなものですね。それと、そうだ。デュシャンの展示に行って、ブレッソン特集を観に行く。この二つは何が何でも成し遂げなければなるまい。それから、友人の展示に行って、新年会に行き、迎春会を開く。ピアノを練習し、カレーパーティーもする。
来月は、、、止めよう、二ヶ月分の計画を遂行できる自信がない・・・。

ともあれ、今年もみなさんに万福がありますように。


―ある語を書き付けると、それに続く可能性のある語群が脳内に浮かぶ。
原理的には、文法的にそれに続いても破綻しないすべての語が浮かぶ(ことになっている)。(中略)
自分の思考はあたかも一直線を進行しているかのように思える。
ふりかえると、たしかに一直線に見える―

これは文章を書くときに起こる「パラダイム」についての考察だけれど、このテキストの「語」を「音符」に、「思考」を「音楽」に置き換えると、ぼくにとっての作曲行為・経験的な作曲において、もっとも枢要なことがらを言い得た文章になる。
五線譜にドの音を置き、その上に、あるいはその次の余白に何の音を配置するか、あるいは配置しないかを考え、またその次の音を紡いでゆく繰り返しにおいて12平均律の作曲は達成される。あらゆる可能性を吟味し、何を優先的に配慮するかを考え続けることこそ、作曲の本質だ。(たぶん)

―例えば、「梅の香が」と書いたあとには、「する」でも「匂う」でも「香る」でも「薫ずる」でも「聞える」でも、いろいろな語が可能性としては配列される。私たちはそのうちの一つを選ぶ。だが、「梅の香がする」を選んだ場合と、「梅の香が薫ずる」を選んだ場合では、そのあとに続く文章全体の「トーン」が変わる。「トーン」どころか「コンテンツ」まで変わる。うっかりすると文章全体の「結論」まで変わる。―

このテキスト自体もともと音楽的な表現で書かれているけれど、上記の文章の「語群」を「音名」に交換するとこうなる。

―例えば、「ドとミ」と書いたあとには、「ファ♯」でも「ソ」でも「ラ」でも「シ」でも「レ」でも、いろいろな音が可能性としては配列される。私たちはそのうちの一つを選ぶ。だが、「ドとミとソ」を選んだ場合と、「ドとミとシ」を選んだ場合では、そのあとに続く文章全体の「トーン」が変わる。「トーン」どころか「コンテンツ」まで変わる。うっかりすると文章全体の「結論」まで変わる。―

恥ずかしいからといって、単純な和音・和声進行を避けていると、力強さに欠ける、あるいは下手したら何も語らないまま終わってしまうというのは、自らへの苦言として、ある。あるいはいつも自戒している。「梅の香が」のあとに、「聞える」と続けたら、詩的ではあるけれど奇を衒った感じがしますよね。「詩的ではあるけれど、奇を衒った」音、協和しない音列をいかに「トーン」を保ったまま採用するか。これは今までの作曲でぼくが常に考えていたことだ。スカルラッティやスクリャービンは、そのへんのバランス感覚が非常に優れているんだよな。
閑話休題・・・、この文章は最後に次のようにまとめられている。

―でも、実際は無数の転轍点があり、無数の分岐があり、それぞれに「私が採用しなかった推論のプロセスと、そこから導かれる結論」がある。分岐点にまで戻って、その「違うプロセスをたどって深化したアイディア」の背中を追いかけるというのは、ものを考える上でたいせつな仕事だ。―