ngatari ガタリ
Art Work by Hana Akiyama
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COLUMN





なんとなく、twitterからfacebookへのシフトが世相として実感されるので、どっぷりとミーハーなぼくは、最近facebookにアクティブです。
しかし、例の「いいね!」ボタンには、いつまでたっても馴染めない。洗濯機の入力スイッチを押すときよりも、Pasmoのタッチよりも手軽に、同意を促されるこのシステムは、いかがなものか。

「全幅の同意を与えたいと思う記事だけに「いいね!」を押せばいいじゃないか、と言われるかもしれないけれど、そんなことは絶対出来ないように、facebookは設計されている。
だって「いいね!」を選ばないことには、コミュニケーション自体が立ち上がらないから。我々には、「いいね!」か沈黙かの、二つの選択肢しか与えられていない。
「よくないね!」も「悪くはないね!」もないし、「いいね!(嘲笑)」や、「いいね!(飽)」もない。
「(賛成はできないが、興味あります、)いいね!」もないので、豊かな議論が展開することもない。
だから、facebook上に反論意見はほとんどない。反論は「沈黙」としてカウントされ、人目につくことはない。
「おれは自分のプリンシプルに反する記事には同意しない!」と息巻く"正しい"人々は、その誠実さゆえに、facebookでのコミュニケーションから自動的に疎外されている。

facebookの「いいね!」それ自体への「いいね!」は回避不能であることが、facebookに漂う「うすっぺらさ」の原因だと思うんですよ。
まぁ、面従腹背の身振りこそ、facebookをはじめとするSNSコミュニケーションの基軸なのかもしれないけどさ。
それでは、「いいね!」をお待ちしています。



教授のトリビュート・アルバム、『坂本龍一トリビュート Ryuichi Sakamoto Tribute』に参加しました。
NGATARIは「美貌の青空」をカバーしました。
ボーカル3声と、ファゴット、コントラバス、ピアノという編成で、作りました。
原曲のVl.とVc.の声部をJessicaのボーカルで支え、コントラバスを藁科基輝さん、ファゴット・大内洋介さん、ピアノ・本間太郎くんにそれぞれ弾いてもらいました。
ピアノはあんたが弾けよと言われるかもしれませんが、ガタリのモットーは、「いつのときもよりうまく出来る人を採用する」というものです。なので、ぼくはそれぞれの楽譜を書き、皆に配ったあとは、渋い顔で昼寝していました。

後日談:
なんと、教授より、「美貌の青空」について、望外のコメントを頂きました!



『The Girl From Ipanema ~アントニオ・カルロス・ジョビン・トリビュート~』
トベタ・バジュンさんプロデュース第二弾カバー。
今度は、アントニオ・カルロス・ジョビンです。
ボサノバなんて門外漢なので、粉骨砕身のレコーディングでした。
ボサノバとして成り立っているのか不安ですが試聴してみてください。
NGATARIは、「Desafinado」です。




「異文化交流ナイト」について、採録します。
(ぼくも本間くんと渡部くんとここで演奏しました。)

ただアクティブなだけで出来ることじゃないと思うんです。若きオーガナイザーの芦刈くんは素晴らしい仕事をしている。
共生や地域社会・コミュニティ活動のような言葉は、時代の風潮に心地良く馴染むけれど、言葉自体には何の意味もないし、多くの活動家やイベンター達は、社会とカウンターカルチャーのリンケージがうまくイメージ出来ず、いまだに退嬰的な活動をぐずぐず続けている。
彼の作るイベントは、オリジナルだと思うし、手探りではあるけれど、伝達への欲求は力強い。特筆すべきは、人的な格差がなくてフラットであり、手の届く距離の人たちと何かを交換している実感を、(たぶん少なくないひとが)持つことのできる空間であること。なにより従来のアンダーグラウンドにはない風通しの良さ(内輪パーティーにありがちな排他的な雰囲気があまりないところ)が、ぼくの気に入っている。

こういう活動は、がんばって続けて欲しいです。



4/11 祖師谷大蔵のCafe MURIWUIにて、コントラバス奏者のパール・アレキサンダーさんと演奏します。
引き出しも多くて、素敵な演奏者です。


5/8のライブは、あだち麗三郎くんと、チェロ奏者の関口将史さん、ひょっとするとコンバス奏者のの芦刈純くんと、NGATARIが共演します。@mona records







訃報が次々届き、喪に服す折も増え、哀悼の意を表明している人々がたくさんいる。
死を悼むというのは、ごく個人的なものだ。もしあなたが個人的に故人を追惜したいと思うのなら、せめて「弔意の共有」への欲望だけは自制するべきなのではないかと思うけれど、それはぼくの個人的な意見だ。

去年親しい人を失った。切迫した死を目の前にして、「最期は苦しまなかった」とか「天寿をまっとうした」と言われても、ぜんぜんまったく理解できなかったし、彼が今はもうここにいないという事実が事実として飲み込めなかった。
「死はきっと、孤独で冷たくて辛いものだよ。誰とも分かち合えないし、共有もできないのだから。」と、死ぬことを、水に溺れることのようにしか想像できないぼくは、少なくともそう感じたし、死んでしまった彼が可哀想で身を引きちぎられる思いさえした。
でも、もちろん、悲しむことも苦しむことも、出来るのは生きている人間だけだ。故人が何を思い、何を望んでいるのかわからないからこそ、突き刺さる悲しみにも、肺腑をえぐるような喪失感にも、時間をかけて耐え忍ぶことができるのだとぼくは思う。死者のために何かをなすという行為は、たとえそれが温かな気遣いや、あるいは親しい人の弔いであっても、本質的には不遜であることにかわりはない。
死者への追悼の意や、故人の生前を忍ぶことを否定しているのではない。「死者のために」は何ひとつ正しいことは出来ないし、効果的な祈りもないのだという無力の態度からしか、死を悼むことはできないと思うだけだ。
なぜなら、死者を弔うことができるのは「死者が本当は何を望んでいるのかまったく見当もつかない」生者だけだからだ。
今まさに悲しみ、苦しむことのできる、我々だけだからだ。

2012.2.18 (土) / 喫茶茶会記
2/18は、本間太郎氏と渡部正人とともに、二台ピアノ+パーカッションのライブをします。
30年前の現在40~50歳のキッズたちの心がときめくような曲やります。
ライヒやら、レディオ・ヘッドなんてやりませんから、心していらしてください。

2/15 HONZI LOVE CONNECTION 4 / 吉祥寺スターパインズカフェ
HONZIさん追悼のライブで、Jessicaが少し歌います。
出演 : スパン子, 熊坂義人, 良原リエ, 他

個人的には音楽と、追悼の意はまったく別のフェーズにある気がするけど、上にも書いたとおり、それはただのぼくの意見であるし、純粋な音楽は素敵に違いがなく、生前を忍ぶことの懇情というのは、さらに素敵なものに違いない。

Gumroadすごいなー。ありそうでなかった、作れそうでだれも作らなかったシステムだよね。こういうのはすごくドキドキするなぁ。








血液型による性格分析というのは「アジアのごく一部における根拠のない奇習」と批判されることが多いけれど、ぼくは結 
構信じている。信仰というほどではないが、一定の「偏り」くらいはあるのではないかと密かに思っている。
ごく個人的な範疇ではあるけれど、血液型と性格の間に相関を感じることはあるし、彼(彼女)は何型だろうと思って尋ねると予想通りだった、 ということが少なからずあるからだ。
もちろんそのような経験的な「傾向」を拠り所にして「科学的に根拠がない」事象を証明できるほど、ぼくは血液について、あるいは性格の分類法についての見聞を持っていないので、ソレって占いと同じで心理誘導の類でしょと言われれば、そうかもしれないと肩をすくめるしかないのだけれど。

しかし、奇習と言われようが、ぼくはこのデタラメで信憑性のない「物差し」を簡単には手放せない。
現時点では血液型性格分析というのは科学的に非常識ということになっているけれど、ひょっとしたら今の科学技術では認識できない素粒子が、人間の人格を規定しうる物質が、血液中に存在するかもしれないではないか。または現在の人格の分類方法に致命的な誤謬がある可能性だってないとは言い切れない。
そもそも、従来のエビデンスによって基礎付けらていない尺度を「疑似科学」というふうに断罪するのは、科学の歴史を俯瞰しても決して実りのある振舞いではないだろう。
そこにささやかでも「偏り」が存在するとき、ひとは何らかの因果関係を見つけることができるし、仮にその仮説を否定するならば、「人格に影響を与える物質は血液中に存在しない」ことについての反証が不可欠だ。 けれどそのような証明がされたことをぼくは寡聞にして知らないので(おそらく「ないこと」を証明するのは難しい。)ぼくは「偏り」への否定論にも与することが出来ない。ぜんぜん。

というわけで、ぼくは初対面のひとに会えば否応なく血液型を尋ね、卑しい偏見をもって構えることにしている。特に女の子には、書架を覗くのと同じように恐る恐る血液型を聞き出しては、一喜一憂してる。ちなみにぼくは自分 自身の血液型を知らないのだけれど、みなさんがここまで読んで想像されている通り、たぶんA型です。

いくつかお知らせです。

12月はライブがいくつかあります。
everyday trees(仮)という、新曲をやります。なんだか曲名がハッピーな雰囲気ですね、
いいきょく。


「坂本龍一トリビュート」アルバムに参加しました。
『美貌の青空』を、エキセントリックにアレンジしました。2012/1/17発売予定。





何ヶ月ぶりかの更新です。忙しくて書けなかったわけではないのだけど、
なんとなく遠のいてしまった。
TPPについて書く。

ぐっすり三日三晩寝ずの熟考を経た結果、ぼくはTPPの是非について、わりとどうでもいいのだと思うようになりました。
推進派が主張するほど貿易市場の活性化もないだろうし、反対派が鼻息を荒げるほどには第一次産業においての雇用に大きな変化はないだろう。
どちらにせよ、局所には痛みを被るセクターも顕れるだろうが、現在の社会制度、あるいは既得権益層が外圧によって破壊されるのは、資本主義社会の一員として痛快ですらある。
無責任ではあるけれど、「かってにしろよもう」と思う。だいたい、「日本終わりますよ」というレトリックが気持ち悪い。終わる終わらないは別として、その発言者の鳥瞰的な態度が気に入らない。
日本は終わっても、自分は終わらないと信じている態度が。

というのが、はらわた煮えくりかえっている市民としての感想なのだが、
そんなことよりも、TPP参加によって、日本はアメリカのアジア戦略にひょいひょい加担して良いのか、というのがより本質的なトピックだろう。
国内の第一次産業の行く末だけを憂慮する人々はあまりにナイーブに過ぎるし、知識人たちが口を揃えて言うように、TPPはアメリカのアジア戦略の一環だと考えるのが妥当なスタート地点だ。
さて、ぼくらはアメリカに胡麻をすっていて良いのか。
個人的にはある程度は良いとおもう。少なくとも中国の経済的台等を牽制する意味では、良いとおもう。
かの国の価値基準が世界のスタンダードとなり、隣国における軍事的な脅威が増し、わが国の気鋭のストライカーが悪質なファウルで削られる・・・、(気鋭のストライカーいないけど)ことを考えると、あたまのわるいアメリカのえらそーな態度を容認するほうが"まだまし"である。アメリカはあたまが悪い国なので、農作物を輸出し、知性を輸入するという仕方でしか21世紀をサバイブできないでいる。
彼らは必死だ。
焦燥感の漂うバカな巨人にへらへらしてついていくか、常識に欠けたこわい若人と仲良くするか。
ぼくは前者をとる、と結論付けようと思ったけれど、うーん、こうやって並べるとどっちも嫌だな~。

そういうわけで、TPPに参加するならばしたらいいよもう、というのが現時点でのぼくの立場です。
現在困窮に耐えかねている人はカルフォルニア米を買えばいいし、現状に不満のない層は、国産を重宝すればいい。
そうやって、老若貧富がそれぞれ持ち場を支えて、世界はくるくる回っている。
大きな声では言えないけれど、主夫として乳製品の関税撤廃は大いに言祝ぐべきことなのだ。
そして、国内の第一次産業壊滅後来る、食糧危機に備えて、ぼくは庭で菜園を耕し、ハーブ各種を愛でながら、狛江全域を放牧地にする計画を立てています。


以下は、備忘のための箇条書き。

先日発売された、Pawnくんの『Tone Sketch』 track.1 "morning tone"にてピアノを弾きました。Pawnさんらしい涼やかで心地良い音楽です。

CALF夏の短編際@ユーロスペース、TOKYO ANIMA@国立新美術館にて上映された、橋本新監督の『ベルーガ』が名古屋でも上映されるようです。

年末年始?発売の諸々にNgatariが参加します。
新曲地道に書いています。なかなかやる気です。

iphone4S買いました。siri機能にわたしは驚愕している。

先日、二子玉川のケーキ屋さんにケーキを食べにいったとき、そこで働く女の子がとても暖かく活きた表情をしていて、エッセイだったか小説だったか忘れたけれど、村上春樹の「仕事というのは本来愛の行為であるべきだ。」という言葉をしみじみ思い返した。美味しかった。

定期的に女子会やってます。






多事多端ゆえに、作曲の時間が一日四時間しか取れない。でも四時間あれば一つのセクションは書ける。三時間では書けない。三時間ぐらいあれば、楽想ひとつぐらいひらめく気もするけれど、睡眠と同じで深く潜るためにはウォーミングアップとクールダウンが前後に必要なので、帰宅してドアの鍵をがちゃがちゃ開けたり、鉛筆をこりこり削ったり、鼻かんだり、それらの準備体操の時間を積み上げていくと、楽譜と向き合うのはやはり正味三時間となる。短い。集中力の涵養にはもってこいかもしれないけれど。

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さいきん、Ametsub氏のアルバムばかり聴いている。二年前ぐらいに初めて試聴したのだけれど、聴いた瞬間、「新しい」と思った。「新しい音楽」の「新しさ」を言葉で説明するのはすごく難しい。感じたのは技術的なことというより、その音楽へのアプローチの仕方だからだ。もちろん音は鋭利で、清く、暴力的なまでにリリースを切ったピアノの音は、クレーやミロのように絵画的で清潔感があり、その新鮮さに感動すらするのだけれど、その音楽自体が新しい方法で作られたわけではないはずだ。それでもAmetsub氏の音楽は、新しい言語で語られていて、その音楽の時間のなかでは豊かな対話が聴こえる。

前衛芸術とは新しい方法で作られた芸術のことではない。
新しい語法を希求する姿は勇ましいかもしれない。でもパセティックだ。
前衛的な音楽家というのは、「聴きなれない旋律」や、「真新しい音」や、「奇矯に聴こえる音像」を追い求めるひとではない。

もし初めて聴いた音が前衛的だというなら、それらは時代の推移とともに、あるいは人間の成長とともに当然その前衛性を失うからだ。前衛的というのは、その語義からもわかるとおり、対になるもの(あるいはひと、あるいは主義)があってはじめて有意となる。

音楽の場合、対になるものは、もちろん聴き手だ。
自分にしか理解できない新しい語法で話す人間は、当然その新しさゆえに、他人とのコミュニケーションを断念するしかないけれど、彼の音楽には聴き手を拒絶するような音は何ひとつない。

結局、聴き手を置き去りにするような音はぜんぜん新しくないのだ。ほんとうに前衛的な音楽は、誰をも置き去りにしないし、誰かに上書きされることもないのだとぼくは思う。それは常に、既知と未知の狭間にあって、だからこそ他者との豊かな対話の可能性を秘めている。

というようなことを、ototo詩トークショーで話そうと思っていたけれど、ここで書いてしまったので、別のことを話します。
楽しいこと話そう。希望とか、善意とか、女の子とかについて。
http://ototoshi.seesaa.net/

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カノンについて(twitterからのコピペ)

カノンというのは、演奏者たちが正確に譜面を辿る一方、聴衆は主題に熱心に耳を澄ますのだけど、複数の声部を追っているうちに彼らは旋律を見失い、あるいは追従される。その混濁した音列の束のなか、突然空から誰も弾いていない音楽が、聴こえるはずのない旋律が降ってくる、そのようなカノンにしか、ポリフォニー的価値はないと思うよ。
自戒の念をこめてツイートし、ただいま弦のアレンジを書いています。

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4/29は沖縄で天国とのライブです。Inoue TaishinさんがNgatariに乗ってくれることになってます。
そして、5/21は「真昼の月、夜の太陽」にて、yuanyuanの面々がNgatariに参加してくれます。
アレンジも頼んじゃった!
ホロヴィッツのアバターであるピアニスト、本間太郎くんとの1台2手もあるかもしれません。
いずれも非常に楽しみです。





さきほど駒沢公園を一周しました。昨日の惨劇が嘘のように牧歌的な休日の風景がそこにはあった。
熱心にジョギングしている人や、日向ぼっこをしている老人、自転車の練習をしている子供は、何度も転んで破顔一笑している。
昨日の地震で、たぶん多くの人が常に死を身近に感じたのではないだろうか。けれども、同様に多くの人にとって死はいつも縁遠い。

ツイッターを眺めていると、(誤解を恐れずに言うなら)底のほうではみんなカタストロフを求めているのではないかと感じる。
本当に情報を希求している人は、PCの前にいないかもしれない。iphoneを握ってタイムラインを追ったりしていないかもしれない。それでも、彼らの善意はとめどなく溢れている。それは確実に人々を救ったし、普段人目につかないところに置かれた贈り物を照れながらも差し出す機会が生まれたのだ。
手の届く人へは手紙を届ければいい。目に見えない人へも、やっぱり手紙を届けるべきだ。できるだけ親密に、注意深く。
みなさんの無事と健康を祈ります。





最近、様々なものに飽きている。
愛聴していたいくつかの音楽に飽きた。好きな作家の文章を読んでいても、なんだか文体自体にうんざりしてしまう。
底無しに愛していたクリーム鯛焼きも買わなくなった。ついでにiphoneのフォルムにも飽きた。

人間は飽きる生き物だ。
恐ろしく飽きる。際限なく飽きる。
衣食住はもちろん、音楽にも飽きるし、文章や思想に飽きて、パートナーにだって飽きる。
いつ、どれほどの時間をもって、どんなときに飽きるのかわからないけれど、どんなに偏愛しているものでも、人は同じものを愛し続けることはできない。
そもそも、飽きるという動詞は、「飽きた」という過去完了の形でしか顕在化しないので、その「瞬間」が訪れるまで、わたしたちはそのリミットが刻々と近づいていることに気がつかない。
だから男女の別れは突然訪れるし、革命はいつもドラスティックなものだし、本屋は減っても古本屋はあまりなくならない。

「いやそんなことはない、オレは妻を数十年愛し続けているし、飽きたことなんて一度もない。」という人がいるかもしれない。
あるいは「50年間聴き続けている音楽がある」という人もいるかもしれない。
でももちろんそれは彼がそれらに「飽きなかった」わけではない。

彼自身がその数十年の間に変化したのである
生涯唯一無二の伴侶とは、ずっと同じ気持ちのまま何も変化することなく相互に恋をしている二人のことではない。
(そんなものは気持ちが悪すぎる。)
二人が絶えず変化し続け、その変化の「曲線」を深く愛し合うという形で、生涯のパートナーは成就されるのである。
(たぶん。うん、たぶん。)

あるいは彼は生涯同じメロディーを愛し続けているかもしれない。
けれど、聴く彼自身が変化しているのだから、彼の記憶における音の染み込み方もずいぶん変化するはずだし、
音の文脈だってもちろん変わってくるはずだ。
人は「過去にそのメロディーを愛した自分」を俯瞰するという形で、記憶を愛し続けているだけである。
って、ペシミスティックに過ぎるかしら。

ともかく、人は飽きないことには、次のパラダイムにシフト出来ないからね。
そのことはずいぶん前に色々書いた。
こうやって同じことを書きまくって、自分にうんざりするのは、わりといいことだと思う。

餃子をせっせと作る。
塩が見当たらない。胡椒粒の隙間に身を隠したとしか思えない。
探し物が何故見つからないかというと、ぼくたちは、その探し物が、どのような色形で、どのように隠れているかを
事前に想像してしまっているからだ。間違いない。

Twitterにハマってます。
Twitterって、言葉が湯水のごとく消費されるので、"秘匿なパブリック"という感じがするけど、
「その言葉を誰が発信したのかは、この際あまり重要ではない」という印象があって、ぼくは結構好きだ。
良くも悪くも今的だ。

最近、映画をよく見る。
ぼくは映画嫌いを公言しているので、夜中にこそこそTSUTAYAに行った。
本当はクレヨンしんちゃんの映画と、小曽根真のショパンを探しに行ったのだけれど、どちらもなかったので
「人生に乾杯」(原題はKonyecというハンガリーの映画)やスペル(B級ホラー)など、いくつかの映画を借りた。
Konyecは牧歌的な話だったのでほんわか和みました。
ところで「アニソン」がアニメソングのことだって今日知りました。
フザケたアジア人アイドルの固有名かなにかだと思っていた。いや、ほんとに。

1Q84 book3 読了
まだ読んでない方も多いと思うので、あれやこれや書きませんが
この本はユング自伝から想起され、書かれた物語だと思いました。
何故そう思ったのかはまた次回。

そういえば、村上春樹の本ではじめて「作者」が登場した。ナレーションのような俯瞰的な文章が一部あって、びっくりした。

いよいよ、5/16はLinus vol.6です。
今回は暴力的なまでに素晴らしい出演者群だと思っているので、是非遊びにいらしてください。
楽しいよきっと!




MADO
2010.5.5 / MADO LOUNGE SPICE





朝っぱらからテレビを見る。
最近、「盛り写メ」なるものが流行っているらしい。
何、盛り写メって。

「ギャル語で過剰に化粧をすること。ギャルに独特の化粧法が「顔に塗る」というより「顔に盛る」ようなイメージがあることから言われるもの。「アクセサリーを過剰に身につける」場合にも言われる。また最近では、さらに一般的に「過剰に演出する」ことについて「盛る」と表現する例が増えている。モリオ、盛り写、盛りプリなどのような複合語を作る場合もある。―新語辞典より」


「盛り写メ」
凄まじい言語感覚である。
「盛り」に含意される本来(本来というか、むかしの)の意味は、「勢いづいている」「絶好調」などのニュアンスだ。女子高生は、そのような古臭い語感にうんざりして、同じ概念を違った言葉で表現するようになった。(たぶん)
「盛り写メ」の「盛り」は「過剰に演出すること」を意味するらしい。
ぼくも「話を盛った」くらいの表現はするけれど、「演出する」という意味か。なるほどね。
でも、ぼくが今判読した「盛り」のニュアンスと女子高生の使う「盛り」とでは、だいぶ隔たりがあるんだろうな。
さすがに女子高生の友達も、もう久しくいないから(さみしい・・・)生きた使い方に触れる機会もないけれど。

ぼくが高校生のころにも新語をどこからともなく運んでくる、コウノトリみたいなやつがいて
彼の発語する新語はまたたく間に学校中に浸透した。
ぼくはそのころ、「ウチの高校ってすげーぜ!最新流行の言葉をキャッチアップしてんぜ!」と息巻いてそれらの新語を使いまくっていた。

たとえば、

「イカチー」

もちろん、「いかつい」である。元々の意味は「ごつい」「威圧的な」辺りだろう。
その「イカチー」を、ぼくらは「怖い、強い」という意味で使いはじめ、転じて、「ヤバイ」というニュアンスにまで昇華させた。
用例を示す。

「あいつらイカチくね?」
「今日数学の小テストあるじゃん、マジイカチーんだけど」

・・・なんて乏しい表現なんだ。バカかオレら。
バカだけど、カワイイ。そして幾星霜「イカチー」は消えた。
「盛り」もこのまま繁昌し続けるとは思えないから、使い捨てなんでしょうね。
別に、使い捨ての言葉が悪いわけじゃなくて、語彙の増やし方に問題があるだけだ。
(だって、言葉って流動的なものだし、時代ごとのイデオロギーと、年代別バックグラウンドにまるごと内包されているもんだから。)
複数の概念や、グラデーションを描く色とりどりの感情を単一の語彙に委ねてしまう人間は、バカのままだけれど、(たとえば、「うぜぇ」とか「さみぃ」とか)言葉をころころとダイナミックに開発して、語彙を獲得していく女子高生に、ぼくは深い敬意を抱くのである。

これを読んだ女子高生諸氏(いないだろうけど・・)、ぜひ「ことばのつかいかた」レクチャーしてください。





今作、Nebular for thirteenについて書こうと思います。
あたりまえのことだけれど、音楽についての説明を書くというのは酷く情けないことだ。
言いたいことは全部作品に書き込んであるはずだし、余人にわからないと言われれば、わからないのだということを甘受しなければならない。
ぼくだったら作者の言い訳なんてききたくないし、だいたい聴き手の耳に一度入った音の粒をとりだして、あれこれサジェッションする行為がはたして正しいのか、ぼくにはよくわからない。
聴いた人が、聴いた人の記憶とリンクしてハッピーになるのであれば、それが一番良いに決まっているから。
「こんなこと書いて・・・」と、いささか含羞もあってテキストを書くので、「この音楽はこう解釈して欲しい」などというつもりは当然ないし、「これを読めばアルバムが二倍おもしろくなる!」ようなこともたぶんないと思います。

以下に残す創作意図のようなものは、単なる自身の備忘録であり、次のパラダイムへシフトするための整理整頓のようなものです。だらだらと同じことを書き連ね、身体と脳みそを倦ませることでしか、旧態依然からの脱却は成就しない。現在のぼくの頭に巣食っている確信に満ちた考え方や、心に深く繋縛されたトピックの墓場となればつきづきしいのだけれど。


「リアリティー」と「コラージュ」というのが今回のアルバムのテーマです。
タイトルは、Nebular for thirteen "13歳の星雲"という意味。
Nebular for thirteenにするか、Nebular to thirteenにするか迷ったけれど、
「13歳の子供が目にした満天の夜空」のような印象、含意のある「13歳のための星雲」Nebular for thirteenにしました。

世界をみつめる子供の視線は批評的です。
星が瞬くことも、夜が訪れることも、樹木が動かないことさえ、彼らにとって当然の出来事ではない。
彼らの鋭利な眼差しの先に広がる手付かずの大地では、"星の背後に配線コードがあるかもしれない"(Linus)。
"夕陽が、空を吊るす糸を焼き尽くして"はじめて夜が訪れるのかもしれない(流木のために)。
既知の星座などというものは存在しない。あたりまえの地平から遠く離れ、何もない空におもいおもいの形を描いてゆく行為が、どれほど鋭いリアリティーになるか。
ぼくら大人が持つ主観、あるいは自明である事柄を頭の中から出来る限り取り除いたときに、世界はどのような色形をしているのか。
その風景に目を凝らし、そっと耳を澄ませることでしか想像力の涵養は成し得ないし、そうやってぼくらは少しずつ世界を解体し、音の強度を高めてゆく。

そんなふうに音楽が作れたらいいなと思って曲を作っているけれど、なにせぼくはもう大人で、既知を未知に塗り替えることはできません。だから、すでに知っていることを知らないふりをして作曲しました。知っていることを親密な口調で発音する。知っていることを知らないものに変えるアクロバティックな作業です。たぶんそれが「コラージュ」の基幹だから。(Linus)


ぼくらが作る曲、それはぼくらが倣った楽典ルールであり、ぼくらが盗んだ音階であり、ぼくらが記憶したメロディーの一部であり、さっき広げたページです。頭のなかに染み込んだ「他人」の意匠を切り貼りして、おおきな地図を作っていく行為は、実に風通しが良いし、サンプリング行為それ自体、非常に優雅だと思う。創造は無数の剽窃で成り立っていることに自覚的であること。使い古された方法で新しい地図を開くこと。手垢のついた様々なファクターを拾い集め、現代の音楽を作りたかった。新しくて古くてすでにそこにあるものを見つけたかった。
時間の雨風に耐えうる音楽というのは、きっとそういうものです。
もし、新しい郷愁感というものがあるとしたら、それがぼくらの目指したものだと思っています。


このアルバムの誕生にかかわったすべての方と、アルバム完成を楽しみに待ち続けてくれたみなさんに、
心からお礼申し上げます。みなさんありがとう!!


さて、すべて忘れて次へ行こう。






なんか気持ち悪くないですか?選挙。
ぼくは、メディアにも、為政者にも、手のひらを返したようにさらっと政権をひっくり返しちゃう国民にも怒りを禁じ得ない。まぁ、しっかりぼくも国民だけどさ。


TBSの投票結果ライブ中継の画面の上のほうに、
『選挙への感想』みたいなメールを紹介していたけれど、
『自公は猛省を!』とか、『この結果が国民の麻生さんへの意見だと思います。』とか
『圧勝に驚いています。民主党を応援しています。』など、
おまえらついこのあいだまで、小泉政権支持してたじゃん。どういうことよ、この君子豹変的な身振りは。


季節風のように、あっさり風向きの変わる民意の構造を誰か説明してくれ。
自民党と民主党の政策的オプションの違いやら、マニフェストやらの違いなんて
五十歩百歩だろう。どっちにしろドラスティックな変化なんてないんだから。

中川昭一の「飲酒問題」とか、麻生太郎の「失言」だけが、失態の理由なんスか?
それともちんけなマニフェストが気になるのか?
やっぱりどうでもいいんだろう、ボスが誰かなんて。


たとえば、どちらかの政党が政権を握っているせいで、酷く虐げられていると思っている人、
家族が貧窮状態だったり、傘が盗まれたり、女の子にフラれたり、鼻炎が治らない、などの遠因が、現在の為政者にあると思っている人、


それは、あなた自身に問題があるのよ。


リストラの対象になったのも、あなたの能力に問題があったのだし、
SUICAのチャージの減りが速いのも、あなたの行動範囲が広すぎるせいだし、
「歩合」を「フゴウ」と平然と読んで失笑されたのも、あなたの知性の不調が原因だ。


人は、「自分の不幸は、当の彼が招いたものであって、その原因さえ取り除けば、自分の幸福は担保される」と妄信している。
(ぼくもケッコウ思っている。)


この選挙結果は、与党に落ち度があったからではなく、
この黒く渦巻くような国民の「他責感」がもたらしたように思えて仕方がない。
暴論か?あながちそうではない気がするけど。